ある印刷会社のデジタル化物語
ある印刷会社のデジタル化物語
印刷という仕事は、ワープロやパソコンの出現でその技術も市場も大きく変わりましたが、日本でインターネットが普及し始めてから28年、今更ながらわれわれの意識や生活も驚くほど変わりました。
日本でインターネットの普及が本格的に始まったのは1995年で、翌年の1996年になると公開される国内のホームページが一気に増えていきました。
1995年の春頃には、書店にはまだ難解な専門家向け解説書が置いてあるだけの状態。夏ぐらいから一般向けに分かりやすく解説した参考書が店頭に並ぶようになってきました。ホームページを閲覧するブラウザは、「モザイク」が多く、続いて「ネットスケープ」が無料で手に入るようになりました。
1995年1月7日に阪神淡路大震災が起こりました。回線が切断されて電話が通じず、混乱する状況の中で情報収集が十分できない状態となりました。一部でわずかに利用されていたインターネットが危機対応に有効だということがわかり、これを機に人々のインターネットに対する認識が一気に変わりました。
同時期に、Windows95が発売されたこと、安い価格で電話回線のダイヤルアップ接続が可能になったことでより一層普及が加速しました。
筆者も既存の電話回線を使って、試行錯誤しながらインターネットの接続体験をし、海外のホームページをあちこちネットサーフィンし、居ながらにしてルーブル美術館のモナ・リザを見ることができることに驚愕したのを覚えています。
翌年の1996年になると国内でも利用者が一気に広まっていきました。
日本で最初のホームページは1992年と言われています。
当社(株式会社谷口印刷)のホームページは1995年10月に開設しました。印刷業のなかでは片手で数えられるぐらい早い時期だったと思います。翌年の1996年2月6日には島根県の公式ホームページが公開されましたが、これは当社を含む数社で編成したプロジェクトが年末年始の期間中に作成しました。
筆者は、1979年、発売になったばかりのNECのパソコンPC8001を購入しました。価格は168,000円でした。記憶装置はカセットデッキ。メモリは16キロバイト。今ならその1000倍上のメガバイト、さらに1000倍上のギガバイトという単位になります。OSはMS-DOS、Basic+マシン語で稼働させます。それまではマイコンピュータと呼ばれていたのが、この機種からパーソナルコンピュータと呼ばれるようになりました。
印刷業は、デジタル技術の出現で、数百年続いたそれまでのアナログ技術が180度変わってしまいました。もちろん使う機械も変わりました。それまでの活字を使う世界では、文字組版はプロだけが扱うことのできる技術でしたが、ワープロの出現で、一般の人々でも可能になりました。
デジタル化以前の文字組版技術は、タイプライターや写真植字機を使って印字を行っていました。もしくは鉛の活字を並べる活版です。したがって、文字を組んでページを仕上げることは専門の印刷業の専売特許でした。ワープロが普及して初めて、一般の人々が文字の組版を行うことができるようになります。
筆者の会社では、比較的早く電子化を行っています。1984年に東レエンジニアリングの電子組版機を初めて導入しました。まだワープロも試作品のような時代で、ユニックスマシンの本体に8インチのフロッピー、出力機はモノクロのインクジェット方式でした。本体はオフィスコンピュータそのものですから、操作は難解で、まるでプログラムを組むような作業で組版を行わなければなりません。出力機もノズルがすぐ詰まってしまうので、その都度販売店を呼んで掃除をしてもらわなければなりませんでした。特に冬場はしょっちゅうトラブルが起こります。オペレータの苦労がうかがえますが、果たしてこの機械が業務用としてモノになるかどうか、試行錯誤と不安の連続でした。
当社での本格的なデジタル化ということになると1994年のマッキントッシュの導入からになります。そして、1997年に印刷用の版をデジタルで製作できるCTPシステムまでそろえたところで組版工程のデジタル化が完成したことになるでしょう。
かつて、21世紀を迎える年に発行された米ライフ誌で、印刷技術は過去1000年間で最も貢献した発明として紹介されました。教科書で習ったように、ルネサンスの3大発明の一つにも挙げられています。便利なデジタルデバイスがどんどん普及していくこの時代に、紙に印刷する技術は、これからの社会で必要とされる技術として残ることができるのでしょうか。カタチの見えないデジタルの情報と、モノとしての印刷物の情報と、どちらも人類に大切なテクノロジーとして併存する時代になるのでしょうか。
2023年3月17日 HT記